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Dec 07, 2005 / 2:02 AM
クソまじめな話

表現と呼ばれる領域でできること。
それは、特にテクノロジーと密着している場において、考えさせられる命題である。
元来、自分が機能美と呼ばれる類の美しさに惹かれる傾向があるからとも言えるのだが、
今日の情報デザイン特論の授業を受けながら、再度、考えないわけにはいかなかった。

サイボーグ医療についてのDVDを見たわけだが、
医療と呼ばれる領域に、神経工学と呼ばれる領域が含まれ、
そこには多分に、情報デザイン的なものが含まれる。
当然、倫理的な問題も発生する。
だが、医療、軍事など最先端の技術が生まれる領域に、表現と呼ばれる領域は含まれない。
つまり、いくら"Art&Technology"、"Art&Science"を叫んでも、
その先端において、テクノロジーはアートの追従を許さない。
おそらく、技術革新が進めば進むほどその傾向は進むはずである。
だが、我々にできることは、医療や軍事のあり方(倫理的問題)に対して一石を投じることだけであろうか?
もし、そうであるならば、もはや情報芸術をその他の美術と差別化することは出来ないし、
芸術と呼ばれる領域の、社会に対するスタンス自体が危ういものになるのではないか。
なぜならば、現代美術は常にそのような姿勢で挑戦を続けてきたし、
思うに、サイボーグ医療のような越境的な領域が新進している現在という一つの状況は、
既に、いわゆる『アート』による第三者的な警鐘や批判が説得力を持つような状況ではない。
とはいえ、歴史が物語るように、デザイン、アートと、サイエンス、テクノロジーは、
テーゼに対するアンチテーゼ、アクションに対するカウンターアクションによって
インタラクティヴな関係を築いてきたわけであり、
現代において、最先端のサイエンスやテクノロジーがアートを突き放すとしても、
それは、簡単に終止符を打つことのできるような関係ではない。
例えば、「記憶を司る海馬を、ICチップに起こせる」という事実を知ったうえで
「記憶」をテーマにして写真を撮るのと、何の疑いも無く、「アイデンティティとしての記憶」
などと言って写真を撮るのでは、その意味において大きな差があると考えられる。

思うに、情報系としての『ヒト』にどこまで迫りながら表現手段をシフトしていけるのか、
という課題が、情報芸術が差し迫って負っている課題としてあるのではないか。
そして、そのようなスタンスから生まれる、既存の芸術との表現の差異こそが、
情報芸術が獲得したボーダーレスな立脚点に意義を与えるものではないだろうか。

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ノンアルコールでこんな話をするのは不健全なので、(逆な気もするが)
誰か飲みに誘ってほしい。(逆な気もする)


by HIRA