今朝は、OSCのポインタ地獄にハマったのち、久々に就床しての就寝。
珍しく目覚めが悪く、携帯アラームのスヌーズを何度も聞いた。
強引に瞼を持ち上げると、やたら晴れた空が見えた。
カーテンを開けて寝るので、いつも起きた瞬間に天気が分かる。
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芸術が、テクノロジーによる触発を許容しないならば、
いわゆる現代美術という枠は、すでに破綻している。
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光学的であった、我々のモチーフに対する眼差しが、科学的になるにつれ、
モチーフ自体が、光学的存在から概念的存在になった。
つまり、関係性やシステムといったものがモチーフとして表われたということ。
そのモチーフを扱うために、コンピュータは必要不可欠である。
(表現とモチーフの再発見が相互補完的に機能してきたことも当然の事実だが)
これは、『現代』において、もはや特別なことではない。
例えば、インターネットというシステムを絵に描くというのはナンセンスである。
語源に立ち返ると、
contemporary(現代)=con+temporary(一時的存在の構築)であるから、
フロントエンドに立脚するものこそ、その呼名に相応しく、
現存する全ての表現を内包できない時点で、"Contemporary Art"という枠は破綻している。
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一方、"Contemporary Art" という言葉は、若干の差こそあれ、おおむね20cの美術を指す場合が多い。
(20c以降や、戦後以降など)
だが、2005年の作品と1900年の作品を同じ"Contemporary Art"という言葉で包括するのは、ナンセンスだ。
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モチーフに対する視点が光学から科学に変わってから、
芸術家の芸術的霊感だけが、インスピレーションである時代は終わった。
少なくとも、自分にはそれはない。
あるとすれば、バランス感覚か。
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油画や日本画の伝統的な部分が無くならないのと同様に、
"Contemporary Art"も伝統的なフレームの1つになるだろう。
語源に立ち返った意味で、"Con+Temporary "であれ。
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家から大学まで、やたら青い空が見えないバスの中で考えたこと。
ぐだぐだ書いたが、テキストで語れることは語ればいい気がする。
補完できるものは補完する。
(もちろん作品の完成度とは無関係だが。)
見ている世界観を提示することが表現であると仮定すれば、
手段の差など、とるに足らない差ではないか。
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学校でのコーディングの結果、結局、OSCでブラウザと波が連携した。
ポインタを理解していないのでかなり攻め倦ねたが、
かなり遠回りな方法で解決した。
今日からしばらく、制作に専念する。
筆を執る仕事は、実家でもできる。
by HIRA