概要
ネットサーフィンという言葉を耳にしたことのある現代人は少なくないだろう。
フィジカルに述べると、ノードとリンクによるクモの巣状のネットワークに、物理的体積は無い。
にも関わらず、我々は、ウェブ・サイトを巡る行為に対し、「サーフィン」という、ある独特な空間性を帯びた比喩を用いる。
ネットサーフィンという言葉を吟味してみると、我々は、泳げないサーファーであることに気づく。つまり、ブラウザという既製のサーフボードを失えば、我々は、ネットの海で自由に振る舞うことは出来ない。
私が、何よりも重要だと感じているのは、ネット空間という、実体積の無いバーチャル空間に対し、我々が空間性を感じているという事実と、そのバーチャル空間と我々の身体のインターフェースは、未だにマウスとキーボード、ブラウザ/ディスプレイでしかないということである。
このインスタレーションでは、我々は、全身を自由に使ってデータの波とインタラクトする。本来、コンテンツとして閲覧するはずのデータは、単なるデータの羅列としてダウンロードされ、ブラウザのフレームでは見慣れた画面が、抽象的な波のテクスチャとなって押し寄せてくる。そして、掻き乱された波間から浮かび上がるリンクから、波の諸条件によって次のサイトを特定し、再びデータが波となって押し寄せてくる。我々は、単に目の前の波と戯れるのみである。ここで行われるネットサーフィンは、サーフィンというよりは、むしろ漂流であると言える。我々が、この場で目の前の波と戯れている間に、このインスタレーションは、"www"との絶え間ないリクエストとロードを繰り返し、その相対速度によって、我々は、"www"上を彷徨い続ける。
フィジカルに述べると、ノードとリンクによるクモの巣状のネットワークに、物理的体積は無い。
にも関わらず、我々は、ウェブ・サイトを巡る行為に対し、「サーフィン」という、ある独特な空間性を帯びた比喩を用いる。
ネットサーフィンという言葉を吟味してみると、我々は、泳げないサーファーであることに気づく。つまり、ブラウザという既製のサーフボードを失えば、我々は、ネットの海で自由に振る舞うことは出来ない。
私が、何よりも重要だと感じているのは、ネット空間という、実体積の無いバーチャル空間に対し、我々が空間性を感じているという事実と、そのバーチャル空間と我々の身体のインターフェースは、未だにマウスとキーボード、ブラウザ/ディスプレイでしかないということである。
このインスタレーションでは、我々は、全身を自由に使ってデータの波とインタラクトする。本来、コンテンツとして閲覧するはずのデータは、単なるデータの羅列としてダウンロードされ、ブラウザのフレームでは見慣れた画面が、抽象的な波のテクスチャとなって押し寄せてくる。そして、掻き乱された波間から浮かび上がるリンクから、波の諸条件によって次のサイトを特定し、再びデータが波となって押し寄せてくる。我々は、単に目の前の波と戯れるのみである。ここで行われるネットサーフィンは、サーフィンというよりは、むしろ漂流であると言える。我々が、この場で目の前の波と戯れている間に、このインスタレーションは、"www"との絶え間ないリクエストとロードを繰り返し、その相対速度によって、我々は、"www"上を彷徨い続ける。