4.1

4月。
まずは名古屋。
用件とは別だが、久しぶりに会える者もいる。

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自称せずともメディアという文字を接頭語として冠することを迫られるとき、
観客の視線はどこに注がれるか。

審美眼は原理的に個人差が大きく、
作家が担保できるものは審美性とは別の絶対基準をもった幾つかのクオリティでしかない。
仮に上記が正論であったとして、システムやメカニズム自体が表現力を持ち得ない場合に限ると、
それらの完成度だけが表出するという状況、ましてや、それらの完成度が作家によって保証されないという状況は、
ナンセンス以外のなにものでもない。

空間や物理デバイスを設計し、プログラムを書き、基盤を設計する。
そのような複雑な制作行程を踏むことや、オンサイトでのインストールおよび調整作業が、
作家や作品にとって負担になり得ることは言うまでもなく、
ゆえに、それを克服できないのであれば、絵画や彫刻などのように、
はじめからそれを必要としないものの方がスマートであり、強度を持つ。

いわゆる現代美術と同じ土俵に上がっているのかそうでないのか、
上がっていないとすれば、上がらないのか、上がれないのか。
もしくは上がることに意味があるのか否か。

結論を見ない話ではある。
自身の制作物に対して国籍によるアイデンティティを感じないということだけを追記しておく。
それを、「何にも迎合しない」ととられてもさして問題ない。

などと書いておいて本日は "April Fool" である。


by HIRA