きおく
昔から自分は、飽きもせず車窓を眺め続けるタチであった。
今でも、疲れた顔を眺めるよりは、窓際に立って外を眺める。
先日、某私鉄の車内から、「xxx荘」という、平仮名の人名のついた建物を見た。
xxxという名前は、うちの科の教授の名だが、
その平仮名の羅列を見たとき、
すぐに思い出したのは、すでに疎遠となった同級生の名であった。
小学校の同級生は、30人もいないのだが、
そのすべての姓名を、今でも漢字で書くことが出来る。
おそらくは、彼らの誕生日が何月だったかも、ほとんど間違いなく思い出せるだろう。
低学年の教室には、生年月日の表が壁に貼ってあったからである。
ちなみに自分の生まれた月の欄には、自分を含め、2人の名があった。
ところで、祖父も車窓の好きな人である。
車に乗って、あちこち、ただ眺めるのが好きらしい。
たかが23年しか生きていない自分の記憶が、
ふと見かけたアパートの名前から蘇るのであれば、
彼の記憶が蘇るトリガーは、そこら辺に遍在しているのだろう。
先日、祖父に、「60年前 にっぽん」という書籍を贈った。
第二次大戦直後の日本のカラー写真を集めた本である。
懐かしく読んだ、という祖父の声を受話器越しに聞いた。
尋常ではない単位のイメージが、個人に宿る。
そしてそれが、個人の寿命と同時に消える。
そこに安堵を覚えるのは自分だけだろうか。
個人の中にある、あらゆる記憶の塊が、
そのまま宇宙に残るとすれば、これほど恐ろしいことは無いのではないか。
確実に消えるからこそ、主観という、個人のもつ偏狭なフレームを受容して、
この世に棲むのもいいのではないかと思える。
by HIRA