視線誘導
時間があるので、何冊か本を読んでいる。
長編小説・短編集・歴史小説・メディア論・マンガ、、と全く脈絡は無い。
自分は、「映像」「写真」の特性に対する「文」のそれとして、
具体的な視聴覚データの削減と引き換えに得られる、もしくは、
個人が単語に対して持つ意味の差異による、鑑賞者の自由度をよく引き合いに出すが、
それとは別に、読書中に考えた事をメモしておく。
写真家や映像作家は、写真の構図、シーケンスで見る者の視線を誘導する。
作家は、文の流れだけで、読む者の視線を誘導する。
写真や映画を、能動的な視線で(映画の場合、時間を制約されるが)鑑賞するのも面白いが、
作家が仕組んだ視線を忠実にトレースしていく、もしくは「トレースさせられる」のも面白い。
作家が抱いたイメージが、単語の集積となって発され、自分の中で再構築される。
それは非常に興味深いプロセスだ。
自分にとっての単語の意味は、作家のそれとは別物であり、
従って、そこに再構築されるイメージは自分だけのものだ。
それを許してしまう「文」というフレームの自由度と、そこに仕組まれた作家の視線誘導、
さらには意識や思考の誘導を、同時に体験するのはとても心地よい。
写真にしろ映画にしろ文にしろ、
名作と称されるものは、上記の点を含むメディアの特性を無視していないものだ。
by HIRA