ワイヤーフレームと小説
先日、時間を見つけて小説を読んだ。
赤川次郎『鼠、江戸を走る』
鼠小僧の話が何編か収まっている。泥棒の話だ。
読み終えて気付いたのだが、
不思議なことに、主人公である鼠小僧と、その妹の
視覚的な描写がほとんどなされていない。
顔、表情の描写も無ければ、容姿の描写も無い。
特筆するベきは、それでいて読者の頭の中に、
鼠小僧像が出来上がる事である。
これは小説というメディアの特性ではないだろうか。
視覚的イメージを直接的ではなく構築することができる。
小説を映画化した時に失敗するのは、
この、小説の特性を理解し切れていない場合が多いのではないだろうか。
司馬遼太郎『梟の城』などもそうだろう。
甲賀・伊賀忍者の人間離れした術を、無理矢理映像化したところで、
読者が構築していた忍者像を、現実に着地させてしまうだけである。
原著が持つ独特の不気味な魅力は、映像では再現し切れていない。
話が飛ぶが、小説の持つ「視覚的イメージを視覚情報無しで構築できる」という特性は、
つまり、想像力を喚起することができるということではないか。
その点は、自分がワイヤーフレームでプリミティウ゛な形態を用いる理由と重複している。
描き過ぎない事。
観覧者がその先に喚起するイメージについて枠を設けてしまう事は、
表現としてあまり良い事だとは思っていない。
「アートは見る側に在る」とよく言われる。
観覧者に投げっ放しにして問題の起きないほどの強度のある作品を創りたいものである。
by HIRA